Damnatio Memoriae

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Damnatio Memoriae / ダムナティオ・メモリアエ(「記録抹殺刑」)というものを知ったのはいつのことだったろう。古代ローマで「その者の存在していたことの記録をすべて抹消し、歴史から消去してしまう」という最高の厳罰。ローマ帝国史などほとんど知らない無学なわたしでも、この刑罰の持つ大きな意味、その仄暗い恐怖はぼんやりと捕まえることができる。二度目の死刑、死後の死刑。
「歴史や記録やらに名前など残らなくても構わないだろう。そんな“偉大な”生活は予定してない」と考えたりもするけれど、ジョージ・オーウェルの「1984年」に登場する“非実在者”という「存在」や、実際は本人に何の責任もないのに戦争やら公害やらで不慮の死を遂げ、数十年後に「隠蔽されていた資料」の発見や公表によって改めて“被害者”として記録される方々、そういうあまりにも非条理で、どうにも納得のいかない様な事を考えたりもする。
 時代が変わって記憶や記録についての考え方も少しだけ変わって「忘れられる権利」というものも生まれた。これも判る。個人のプライバシーだとかに関しては、わたし自身が「政治的に過激な主張をするわけでもなく、法を犯すわけでもないのに、何故、実際の『わたし』と切り離した匿名で稚拙な音楽を出したり駄文を書きなぐっているのか?」という事にも関係してくる。
 この夏の初めに、わたしはある行事で自分や自分の家族とは全く関係ない方々の眠るところへの墓参に参加した。こういう書き方をしたら怒られる気もするけれど、初夏の小雨の中でのそれは静かで美しい光景だった。軽くぬかるみ始めた帰り道、名前も読めなくなったようなお墓を幾つか見ながら、お墓って記録装置なんだなと改めて考えていた。
 残念な事にわたしはドリトル先生ではないので、ねこや犬や鳥たちの死生観はわからないけれど、人には「愛する人には自分のことを忘れないでいてもらいたい」という気持ちが強くあることは知っている。下手をすれば「実際よりもより偉大な人」だと思われたい虚栄心まで顔を出す。それはそれで人間らしくて悪いことではないだろう。各々勝手に自分のモラルの許容する範囲でやってればいい。わたしには関係がない。
 ただ、絶対に曲げたくない気持ちとしては、個人が持つ「忘れられる権利」はあっても、外部からの「忘れることの強制」は認めない。認めたくない。
 ジョージ・オーウェルが第二次世界大戦の最中、1944年2月4日のトリビューン紙に掲載していたコラム「思いつくままに」(As I Please)でこう書いている。
“つまるところ、われわれが勝たねばならぬとする根拠は、われわれが勝てば敵が勝ったばあいにくらべてそれほど嘘をつかないということにある。全体主義の真の恐怖は、「残虐行為」をおこなうからではなく、客観的真実という概念を攻撃することにある。それは未来ばかりか過去までも平然と意のままに動かすのだ。”
(「思いつくままに」小野寺健訳、オーウェル評論集 岩波文庫)
”In the last analysis our only claim to victory is that if we win the war we shall tell fewer lies about it than our adversaries. The really frightening thing about totalitarianism is not that it commits ‘atrocities’ but that it attacks the concept of objective truth; it claims to control the past as well as the future.”

(続く)


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